カナダの生化学者イアン・マクラクランの革新的な薬物送達システムなくしては、モデルナ社もファイザー社もmRNAワクチン接種の安全性は確保できなかった。では、なぜこのカナダ人生化学者の多大なる貢献は世に知られていないのか──なぜロイヤルティーが支払われていないのか。以下は、米フォーブスの数カ月に及ぶ調査の結果である。
2大製薬会社トップ、工場への直談判
1日あたりの感染者数が全世界で20万人を超えるパンデミックが起きた2020年夏、ファイザー社CEO(最高経営責任者)アルバート・ブーラとビオンテック社CEOウグル・シャヒンは高級プライベートジェットで、オーストリアのクロスターノイブルクの丘陵地帯へ向かった。
目的地は、ドナウ川西岸にあるポリマン・サイエンティフィック・イミューンバイオロジッシュ・フォーシュング社という小さな製造工場だった。ブーラとシャヒンの使命は、工場に新型コロナウイルスワクチン用の脂質ナノ粒子をできるだけ大量に生産させることだった。このワクチンについては、FDA(米食品医薬品局)から緊急承認を受ける手続きが急ピッチで進められていた。
ファイザー社とビオンテック社が共同開発したワクチンは、人体の免疫システムにコロナウイルスを攻撃させるmRNA(メッセンジャーRNA)技術を用いて設計された。しかし、ワクチンを人間の細胞に安全に送りこむには、極小の脂肪粒子でmRNAを包まなければならない。その脂質ナノ粒子を作る世界でも数少ない工場のひとつが、件のオーストリアの製造工場だった。ブーラは両社の共同案件を推進するために、シャヒンにも現地への同行を求めた。
「mRNAプラットフォーム技術はmRNA粒子の作り方がすべてではない。それ自体はなんら難しくない」とブーラは言う。「問題は、どうしたらmRNA粒子が確実に細胞に入って指示を出すようにできるかという点だ」
コロナワクチン開発の陰に、無名の学者あり
モデルナ社、ビオンテック社、ファイザー社がその重要な送達システムを開発した経緯については、これまで一度も語られていない。それは15年間にわたる法廷闘争と、裏切りと策略の渦巻く込み入った物語だ。唯一はっきりしているのは、人類がパンデミックを抑えるためにmRNAをヒトの細胞に届ける方法を必要としたとき、信頼できる利用可能な手段は1つしかなく、それを発明したのはファイザー社でも、モデルナ社でも、ビオンテック社でも、その他の大手ワクチン製造会社でもなかったことだ。
フォーブスの数カ月に及ぶ調査で明らかになった事実によれば、このきわめて重大な送達方法を編み出した最大の功労者は、無名と言っていい57歳のカナダ人生化学者イアン・マクラクランである。
2つの小規模な会社、プロティバ・バイオセラピューティクス社とテクミラ・ファーマシューティカルズ社で主任研究員としてこの重要なテクノロジーの開発チームを率いていたのがマクラクランだった。ところが今になると、マクラクランの革新的な研究成果を公に認める人はごくわずかで、大手製薬会社にいたってはいっさい口をつぐんでいる。しかもマクラクランは自身が開発に携わった技術から、いっさい収入を得ていない。
「ニュースを見ると、僕たちが開発した技術を使ったワクチンの話題ばかりだ」
「残りの人生をこの問題にこだわって生きていくつもりはないが、忘れてしまうことはできないだろう」とマクラクランは言う。「毎朝ブラウザを開いてニュースを見ると、どこもかしこもワクチンの話題ばかりだ。そのワクチンは僕たちが開発した技術を使っている。それは間違いない」
モデルナ社は、自社のmRNAワクチンがマクラクランの送達システムを使っているという疑いをきっぱり否定しているし、ファイザー社と提携するワクチン製造会社ビオンテックもその件については口を濁す。訴訟は継続中で、これには大金がかかっている。
モデルナ社、ビオンテック社、ファイザー社が2021年に販売したワクチンの売上げは450億ドルに達する見込みであるのに、3社ともマクラクランには一銭も金を支払っていない。
逆にグリットストーン・バイオ社(旧・グリットストーン・オンコロジー社)などのコロナウイルスワクチン製造会社は先頃、マクラクランが率いたプロティバ社とテクミラ社の共同開発による送達テクノロジーに、売上げの5~15パーセントに相当する権利を認めた。
バイデン大統領、コロナワクチンの特許権放棄求める
マクラクランはもはやこのテクノロジーに金銭的な利害関係を持ってはいないが、モデルナ社およびファイザー=ビオンテック社のワクチンの売上げから同率のロイヤリティーが支払われれば、2021年単年で67億5000万ドルもの利益を生み出す可能性がある。
だが運命のいたずらか、コロナワクチンの特許権放棄を求めるバイデン米大統領のせいで、時代に先駆けたマクラクランの開発技術の知的財産権が大金を生み出す可能性はきわめて低い。
3社とも否定しているが、FDAに提出された研究論文と申請書を調べれば、モデルナ社やファイザー=ビオンテック社のワクチンがマクラクランのチームの開発したシステムと酷似する送達システムを使用しているのは明らかだ。どちらも、慎重に配合された4種類の脂質分子をアルコールとTコネクター装置を用いて混合し、mRNAを高密度粒子で封入している。
モデルナ社は長年、独自開発の送達システムを使用していると主張していたが、いざ新型コロナワクチンをマウスで試験する段になると、マクラクランの開発技術と同じ4種類の脂質を同じ比率で用いていた。
臨床前のワクチン製剤設計はワクチン自体とは別物だというのがモデルナ社の主張だ。その後にモデルナ社が提出した書類によれば、同社のワクチンはマクラクランの送達システムと同じ4種類の脂質を使用しているが、1種類は特許を所有している脂質で、「微修正された」未公開の比率を用いているという。
ファイザー社とビオンテック社も同工異曲だ。FDAの文書によれば、両社のワクチンはマクラクランの開発チームが数年前に特許を取得したものとほぼ同じ比率の4種の同一の脂質を使用している。ただし、脂質の1つは新たに登録した変種であるが。
ノーベル賞有力候補者だったカリコ博士も──
マクラクランを無視する者ばかりではない。「LNP〔脂質ナノ粒子〕についてはイアン・マクラクランの功績が大きい」とカタリン・カリコは言う。2013年にビオンテック社に入るまでに、mRNA治療法の土台を築き、2021年10月のノーベル賞最有力候補者でもあった科学者だ。しかしカリコはマクラクランに苦言を呈してもいる。数年前、mRNA関連の自社設立に動いた際、送達システムの利用にマクラクランが協力的でなかったからだ。「〔マクラクランは〕偉大な研究者かもしれないが、先見の明がない」
7年前、マクラクランはテクミラ社を辞職し、輝かしい発見と経済的見返りの可能性に背を向けた。送達システムをめぐる泥沼の法廷闘争やバイオ医薬品業界内の政治的駆け引きに疲れたのだ。マクラクランの心境は複雑である。チャンスを逃したのかもしれないが、世界を救う手助けをしたという思いもある。
「チームのメンバーはこの技術の開発に心血を注いだ。研究に身も心も捧げた」とマクラクランは言う。「あくせく働き、骨身を削って研究に没頭した」
ホーエン・テュービンゲン城はドイツのテュービンゲンの町を見下ろす丘の上に建っている。2013年10月、当時テクミラ社の主任研究員だったマクラクランは第1回国際mRNA医療学会のカクテルパーティーに出席するため、重い足取りで坂道を上り、城に向かっていた。パーティの席で、マクラクランはモデルナ・セラピューティクス社というmRNA関連の新興企業のCEOステファン・バンセルに話しかけた。そして、テクミラ社とモデルナ社が業務提携し、自分の開発した薬物送達システムを利用しないかと持ちかけた。バンセルの返事はこうだった。「おたくは高すぎるよ」
このやりとりから、マクラクランは嫌な印象を受けた。5年前にテクミラ社を解雇された元同僚のトーマス・マッデンの存在も気にかかった。この時点でマクラクランは送達システムの開発に10年以上携わっていたが、バンセルのような人々はロンドン生まれのマッデンと手を組むほうに興味を持っているようだった。
送達技術をめぐって──マクラクラン、マッデンのつばぜり合い
マクラクランとマッデンという2人の研究者のライバル意識は、現在の新型コロナワクチンに欠かせない送達テクノロジーをめぐる論争から発している。
2人の出会いは25年前、カナダのブリティッシュコロンビア州バンクーバーに本社を置くイネックス・ファーマシューティカルズ社という小さなバイオ企業でともに仕事をしていた時代にさかのぼる。生化学の博士号を持つマクラクランは1996年にイネックスに入社した。ミシガン大学の遺伝子研究室で博士課程を終えて最初に就職した職場だった。
イネックス社の共同設立者は主任研究員ピーター・カリス(75)で、ブリティッシュコロンビア大学で教鞭を執る長髪の物理学者だった。カリスはバイオテクノロジー研究をいくつか立ち上げ、研究者のエリート集団を育て、バンクーバーを脂質化学発展の土壌にした。
イネックス社は低分子化学療法剤の新薬候補を持っていたが、カリスは遺伝子治療にも関心があった。彼の目標は泡状の脂質に封入したDNAやRNAなど高分子の遺伝物質を送達し、薬剤として細胞内に安全に運ぶことだった。生化学者が何十年も前から夢見てきた技術だが、実現は不可能だった。
洗剤を液体で混ぜる新たな方法を使って、イネックス社のカリスのチームはDNAの少片をリポソームと呼ばれるごく小さな泡で包むことに成功した。あいにくこのシステムでは遺伝子治療に必要とされる大きな分子を医療上有用な方法で運ぶことができなかった。エタノールを使う方法も試したが、どれも成功しなかった。
「イネックス社で、ありとあらゆるLNP〔脂質ナノ粒子〕を組み立ててみたが、〔遺伝物質に〕応用できなかった」とカリスは言う。
功を奏したのは、シンプルな方法
イネックス社は研究所ではなく民間企業だったから、将来性のある化学療法薬に重点が移され、遺伝子治療班はほぼ解散状態になった。マクラクランは残った班を率いたが、2000年にとうとう匙を投げた。それでもカリスは、マクラクランにすっかり手を引かせはしなかった。新しい会社を設立して、送達システムの開発を続けたらどうかと説得した。
そこでプロティバ・バイオセラピューティクス社が誕生し(マクラクランは主任研究員に就任した)、イネックス社はプロティバ社の株を少量保有した。マクラクランは、生化学の博士号を持ち、アメリカのバイオ企業で長年重役を務めたマーク・マレー(73)を引き抜き、CEOの座に据えた。
ほどなくプロティバ社の化学者、ローン・パーマーとロイド・ジェフスは新たな混合法につながる大発見をした。Tコネクター装置の片側にアルコールに溶かした脂質を置き、反対側には塩水に溶かした遺伝子物質を置き、2種類の溶液を噴出により合流させた。すると、期待どおりの現象が発生した。衝突の結果、脂質は高密度のナノ粒子を形成して遺伝子物質を包みこんだ。方法はいたってシンプルだったが、それがうまくいったのだ。
別方式の遺伝子治療「RNAi」も
「それまで使っていた様々な方法はどれもむらがあり、効果がなかった」とマクラクランは言う。「製剤にはまるっきり不向きだった」
マクラクランの率いるチームは4種類の特定の脂質からなる新しい脂質ナノ粒子の開発にさっそく取りかかった。イネックス社が実験に使っていた脂質と同じものだが、マクラクランのLNPは核内の密度が高く、イネックス社の開発した袋状のリポソームの泡とは格段の違いがあった。マクラクランのチームは4種類の脂質が最も効果的に働く比率を割り出した。全部きちんと特許を取得した。
モデルナ社のコロナワクチンとファイザー社のコロナワクチンはメッセンジャーRNA分子に基づく遺伝子治療の方式を用いている。ところがプロティバ社の研究者は当初、RNA干渉、あるいはRNAiを用いた別の方式の遺伝子治療の方に関心を持っていた。
mRNAが治療用タンパク質を作るように体内で指示を出すのに対し、RNAiには病気を起こす前に悪い遺伝子を抑える役割がある。マクラクランの送達システムを得たプロティバ社は米マサチューセッツ州ケンブリッジに拠点を置くバイオ企業アルナイラム社と提携し、RNAi治療の実用化に取り組んだ。
薬物送達システムの開発競争
一方、マクラクランの古巣、イネックス社は化学療法薬の緊急承認をFDAに却下されたあと経営が傾いていた。わずか数年前にプロティバを別会社化したばかりだったのに、人員を大幅に整理して薬物送達システムの開発に戻り、プロティバと同様、アルナイラム社と手を組むようになった。2005年にカリスが退職すると、イネックス社で送達システム開発を進めるのはマクラクランの最大のライバル、トーマス・マッデンだけになった。
2006年、プロティバ社とアルナイラム社は「ネイチャー」誌に画期的な論文を発表し、遺伝子サイレンシングが初めて実験用のサルで効果を上げたことを論証した。この研究には、マクラクランのチームが開発した送達システムが使用されていた。
つぎにアルナイラム社はオンパットロの開発に取り組んだ。これは特定の遺伝性疾患を抱える成人の神経損傷治療に用いるRNAi治療薬で、同種の薬剤ではFDAの承認を受けた第1号となった。申請書によれば、アルナイラム社はマクラクランの送達システムをオンパットロに使用したが、ひとつだけ例外があった。4種の脂質のうち1種類だけ、トーマス・マッデンと共同開発した修正版の脂質を使ったのだ。
2008年10月、マクラクランがプロティバ社に引き抜いたCEOマーク・マレーは、買収したばかりの小さなペーパーカンパニー、テクミラ・ファーマシューティカルズ社の一室にいた。プロティバ社と同じくテクミラ社もイネックス社が設立した会社で、イネックス社は1年前についに経営破綻し、残った資産をすべて廃業前にテクミラ社に移していた。マレーは買収に伴って転籍した元イネックス社の15名の研究者を呼び集めた。そこには、トーマス・マッデンも含まれていた。
「あいにく、きみたちをこれ以上雇っておくことはできない」とマレーは研究者たちに告げた。
熾烈な法廷闘争が──
マッデンが解雇された理由のひとつに、イネックス社とプロティバ社が、薬物送達システムの研究開発を、それぞれ別々にアルナイラム社と共同で進めていたことが原因で起きた泥沼の法廷闘争があった。
裁判は何年も続いた。訴訟のたびにマレーとマクラクランは、マッデンとカリスにアイディアを盗まれたと非難した。気分を害したマッデンとカリスはその非難を否定し、何度かマレーとマクラクランのほうこそ不正を働いたとして反訴した。
訴訟の第1ラウンドは2008年に和解が成立し、プロティバ社はテクミラ社を買収した。マレーがCEO、マクラクランが主任研究員の座に就き、ほどなくマッデンは解雇された。裁判で痛手は負ったが、マッデンとカリスは2009年に新会社を設立し、アルナイラム社との業務提携は続行した。
それに対してテクミラ社は、マサチューセッツのバイオ企業アルナイラムがマッデンとカリスと共謀し、マクラクランが開発した送達システムの所有権を安価で手に入れたとして、アルナイラム社を訴えた。アルナイラム社は不正行為を否定し、当然ながら反訴して、送達システムの4種類の脂質のうち1種類を改良したマッデンとカリスと仕事をしたかっただけだと主張した。
訴訟は2012年に和解し、アルナイラム社がテクミラ社に6500万ドルを支払い、数十件の特許権をテクミラ社に譲渡することで合意に至った。マッデンがオンパットロ用に開発した改良版脂質の特許権もそこに含まれていた。この取り決めにより、カリスとマッデンの新会社はmRNA製品を一から作ろうとしても、マクラクランの送達システムはわずかな部分しか使えないことになった。
敗北感を覚え、マクラクランはテクミラ社を退職した。持ち株を売却し、中古のキャンピングカーを6万ドルで購入し、妻子と愛犬を連れて5200マイルのドライブ旅行に出た。「私は疲れ果て、やる気をなくしていた」
カリコ博士の先見の明、2006年にマクラクランに手紙を出していた
ハンガリー出身の生化学者カタリン・カリコが初めてマクラクランを訪ねたのは、こうした熾烈な法廷闘争が繰り広げられている最中だった。カリコは以前から、マクラクランの送達システムがmRNA治療の可能性を解き明かす鍵を握っていると考えていた。
早くも2006年にはマクラクランに手紙を出し、自分が化学変化させた画期的なmRNAを彼の開発した4種類の脂質を用いる送達システムで封入してみたらどうかと勧めていた。裁判沙汰に巻き込まれていたので、マクラクランはカリコの申し出を退けた。
しかし、カリコは粘り強かった。2013年、飛行機に乗ってテクミラ社の幹部たちに会いに行き、マクラクランの直属の部下として仕事ができるならバンクーバーに引っ越してもいいと提案した。テクミラ社はその申し出を断った。「モデルナからも、ビオンテックからも、キュアバックからも仕事のオファーはあったけれど、第1志望のテクミラからは声がかからなかった」というカリコは結局、2013年にビオンテック社に就職した。
その頃、モデルナ社CEOステファン・バンセルも送達システムの難題を解決しようとしていた。バンセルはテクミラ社と提携について話し合ったが、協議は一向に進展しなかった。テクミラ側は契約締結の条件として、最低1億ドルの前金とロイヤルティーを提示した。
結局モデルナ社はテクミラ社ではなくマッデンと手を結んだ。マッデンは薬物送達システム技術を扱う会社、アクイタス・セラピューティクス社でカリスとまだ一緒に仕事をしていた。
妻と子供2人、愛犬とともに。カナダ横断旅行へ
2014年2月、マクラクランは50歳になった。人生の伴侶カーリー・シーブルックはマクラクランをバンクーバーの宴会場インペリアルに呼び出した。そこには家族や友人が大勢集まっていた。シーブルックはウエディングドレス姿で登場してマクラクランを驚かせ、2人の子供たちは「ママと結婚してくれる?」と書いたグリーティングカードを父親に贈った。シーブルックはそれまで形式的な婚姻関係を重視してこなかったが、癌から生還したことで人生観が変わったのだ。そして結婚はマクラクランの人生観も一変させた。
3度の飯より仕事が好きな研究者にとって、弁護士とのやりとりや会社間の果てしない駆け引きは大きな負担だった。2014年、敗北感を覚えたマクラクランはテクミラ社を辞めた。持ち株を売却し、中古のキャンピングカー、ウィネベーゴ・アドベンチャラーを6万ドルで買い、正式に結婚した妻と子供2人、愛犬を連れて、5200マイルのカナダ横断旅行に出発した。
マクラクランが去ったあと、CEOのマレーは社名をテクミラからアルブータス・バイオファーマに変更し、ニューヨークの医薬品開発会社ロイバント・サイエンシズ社と提携関係を結んで、B型肝炎治療薬の開発に焦点を絞ろうと決断した。それでも、4種類の脂質による薬物送達システムの特許は手放さなかった。
その後、マッデンの会社アクイタス社はmRNAインフルエンザワクチン開発のため、送達技術のサブライセンス権をモデルナ社に与えた。マッデンにそんな権利はないと確信していたマレーは、2016年にライセンス契約を打ち切るとアクイタス社に通告した。
慣習にならい、2カ月後にアクイタス社はバンクーバーで訴訟を起こし、契約に違反していないと反論した。それに対してマレーは反訴し、またしても法廷闘争が始まった。だが、今回の一連の訴訟はmRNAに直接かかわる重要なものとなった。
係争2年超、ようやく和解
2年以上係争が続いたあと、双方は和解した。すでに研究開発が進行中の4件の製品は別として、マッデンが保有するマクラクランが開発した送達技術のライセンス契約は打ち切られた(マレー側が権利を失ったマッデンの技術もあった)。その後、マレーとロイバントは別会社ジェネバント・サイエンス社を設立した。4種類の脂質送達システムに関する知的財産権を管理し、商業利用するための会社だった。
すぐに数社から引き合いがあった。数カ月もしないうちに、ビオンテック社のCEOシャヒンは自社の既存のmRNA癌治療プログラムに送達システムを使用できる契約をジェネバント社と結んだ。そして、希少疾患を対象にした5つのmRNAプログラムも共同で開発することになったのだ。
ただし新型コロナなど、まったくの不測の事態に送達技術を使用する取り決めはなかった。
モデルナ社は別の方向から戦略を進めた。現在はジェネバント社の管理下にあるマクラクランの送達システムに関する一連の特許の無効を求め、米国特許商標庁に提訴したのだ。しかし2020年7月、モデルナ社がワクチンの臨床試験に踏み切ると、特許商標庁は送達システムのおもな特許を認める裁定を下した(この件について、モデルナ社は控訴して係争中)。
モデルナ社のワクチンとファイザー=ビオンテック社のワクチンが認可されたあと、ペンシルベニア大学の著名なmRNA研究者ドリュー・ワイスマンが論文審査のある専門誌上で発表した結論によれば、どちらのワクチンも「アルナイラム社のオンパットロ製品に類似している」が、脂質の1つは所有権を主張できる独自の変種を用いた送達システムを使用しているという。両社ともにTコネクター装置を用いているということだった。
トーマス・マッデンはファイザー=ビオンテック社のワクチン送達システムの開発にあたって、4種類の脂質のうち2種類は改良版を使ったと述べている。自分のチームが脂質を改良していなかったら、オンパットロもファイザー=ビオンテック社のワクチンもFDAの認可は下りなかっただろうと主張する。
マクラクランはその新種を「焼き直しの技術革新」と片づけている。
コロナワクチン製造各社は米フォーブスの取材にどう応えたか
モデルナ社の広報責任者レイ・ジョーダンは米フォーブスの取材に文書で回答を寄せた。「確認したところ、旧型製品のなかにはテクミラ社の知的財産権の許諾を得たものがありました。しかし、(コロナワクチンを含む)新型製品は新技術を取り入れています」
ビオンテック社はコメントを差し控えた。ファイザー社の主任研究員ミカエル・ドルステンの話では、ファイザー=ビオンテック社のワクチンは正式に特許を取得済みで、最初に認可されたmRNA製品の開発中、年間30億回分を生産するために送達システムを修正したという。
「ごく小さな規模でうまくいっても、規模が大きくなればプロセスは変わってくる。似たように見えても、仮定条件は科学の発展や情報源の違いによって変化するものだ」とドルステンは言う。「名前とモル比が似ているからといって同じものだと決めつけるのは要注意だ」
ジェネバント社はコメントを出すのを控えたが、厳しい戦いが予想される。5月にバイデン政権は新型コロナワクチンの知的財産権の保有放棄を支持した。皮肉にも、こうした動きはモデルナ社とビオンテック社とファイザー社にむしろ有利に働く可能性がある。3社の巨額の利益に対するジェネバンド社からの損害賠償請求を阻めるからだ。
過去100年で最も重要と考えられる医学上の進歩に貢献していながら、その役割がバイオテクノロジー産業に抹消されたイアン・マクラクランにとっても、それでよかったのかもしれない。
「自分が貢献したという実感はたしかに持っている」とマクラクランは言う。「それをどう言われているか知っているし、この技術の始まりも見てきたから、複雑な心境だよ」