若きスティーブ・ジョブズとスティーブン・ウォズニアックが、ジョブズの自宅で創業したアップル。その小さなスタートアップを大企業へと成長させる道筋を付けたのは、初代会長のマイク・マークラだった。ジョブズにとって唯一無二のメンターでもあったというその人物像とは――。
※本稿は、レスリー・バーリン著・牧野洋訳『トラブルメーカーズ 「異端児」たちはいかにしてシリコンバレーを創ったのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の「訳者あとがき」の一部を再編集したものです。
会社と呼べる状態ではなかった創業直後
インテルを退社して悠々自適の生活を送っていたマイク・マークラ。ベンチャーキャピタリストのドン・バレンタインの依頼を受け、1976年秋、起業家2人(スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック)のガレージを訪問した。
起業家2人が立ち上げたアップルは、素人経営のスタートアップでありながらもすでにわずかに黒字化していた。1枚当たり200ドルで回路基板を組み立てて、1枚500ドルで電器店バイトショップへ売っていたからだ。
とはいっても、マークラ以前のアップルはとても会社と呼べるような状態ではなかった。第一に、実家のベッドルームとガレージのオフィス賃料はゼロ。第二に、営業部隊はジョブズとウォズニアックの2人。主な仕事は車であちこちの電器店を訪ね、アップル製コンピューターを売る気はないかと聞いて回ること。
第三に、唯一給与をもらっていたのはジョブズの妹とジョブズの友人の2人だけ。それぞれ回路基板1枚当たり1ドル、時間当たり4ドル稼いでいた。第四に、2人はアップルⅠの小売価格を666.66ドルに設定していた。バイトショップへの納入価格500ドルに30%の利幅を上乗せしたうえで、同じ数字の繰り返しになるように少し数字をいじっていた。このほうが面白い、とウォズニアックが思ったからだ。
引退後の個人的目標を列挙した情報カードに従い、マークラは週1回に限って将来性のある起業家にアドバイスしてきた。ジョブズの実家ガレージ内で立ちながら、ウォズニアックのアップルⅡを見て確信した。これこそ自分専用コンピューターを夢見る人の希望をかなえるマシンだ! ただし、今後もアップルⅡ一本やりでいいのかどうか、はっきり分からなかった。
そこでジョブズとウォズニアックの2人に対してビジネスプランを作成するよう提案した。これまでも多くの起業家に対してビジネスプラン作成を促し、効果を上げてきたのだ。ビジネスプラン作成のポイントとして、部品調達コストや流通チャネルを見極めるほか、市場規模を推定する必要性を指摘した。まだ存在していないパソコン市場の規模を推定するのは難しいということも分かっていたので、アメリカ国内で普及している電話台数を目安にするようアドバイスした。
絶対に宿題をやってこなかった2人
それから数週間、秋が深まりつつあるなかでジョブズ(たまにウォズニアック)はマークラの新居に通ってアドバイスを仰いだ。新居は大きく、旧居から数ブロックしか離れていなかった。
2人がマークラに会うのは、裏庭のプールサイドに彼が建てた脱衣所の中だった。ウォズニアックは新居を見て感激した。「丘の上に建つ美しい家からきらきらと輝く夜のクパチーノを見下ろせる。素晴らしい眺めと素晴らしい奥さん。完璧でした」
ミーティングのたびにマークラは宿題を出した。競争相手は誰か? 利益はどのくらい出そうか? 社員はどうするのか? どのくらいの成長スピードを考えているのか? 2人はビジネスプランの中でこれらの質問にきちんと答えられなければならない。そうでなければ持続可能な会社を立ち上げるのも難しい。
ジョブズはどうしたのか。いつも宿題をやらずにミーティングにやって来た。
数週間経過してマークラは理解した。2人がビジネスプランを書くことはないのだ。どうしてなのか。ウォズニアックはヒューレット・パッカード(HP)社員であるから、起業には関心を抱いていなかった。自由にやっていいと言われたら、おそらくアップルⅡのデザインを無償で手放したか、原価で売り払ったことだろう。
一方、ジョブズは起業に意欲を燃やしていながらも、1976年秋時点では「バイトショップへ基板を納品して、稼いだカネで部品を買って、より多くの基板を作る」というビジネス以外は想像できなかった。弱冠21歳で会社勤務歴15カ月(15カ月はすべてゲーム会社アタリで下級エンジニアとして働いた期間)では、宿題にまともに答えられないのも仕方がなかった。
自分がビジネスプランを書くしかない
では、どうやってビジネスプランを作成したらいいのか。自分でやるしかない、とマークラは思った。アドバイスしてきた起業家のためにビジネスプランを書いたことはそれまで一度もなかった。ビジネスプランを書いてあげようと思うほどのポテンシャルを秘めた起業家に出会えていなかったともいえる。
アップルのビジネスプランを書けば、引退後は月曜日だけビジネスについて考えるという自己ルールを破る格好になる。しかし、ウォズニアックとアップルⅡを放っておくわけにはいかなかった。ジョブズも「ダイヤモンドの原石」のように見え、やはり放っておくわけにはいかなかった。
ジョブズの才能はピカ一に見えた
ジョブズはマークラいわく「非凡な才覚を持つ若者」だった。ウォズニアックのコンピューターにいち早く商機を見いだしていたし、粘り強く大胆に行動するスキルも備えていた。
アップルⅠ用の回路基板ビジネスを見てみよう。回路基板の組み立てに必要なチップについては、仕入れ先と交渉して30日間の支払い猶予で合意を取り付けていた。一方で、回路基板を納入する電器店に対しては、納品時の即金払いを求めていた。つまり、アタリの共同創業者ノーラン・ブッシュネルが採用した「ブートストラップ型経営」を実践していたわけだ。営業マンとしてもピカ一だった。これはと思った潜在顧客を見つけたら、電話を取ってもらえるまで何度でも電話をかけた。
11月中旬、マークラは自宅オフィスに座ってビジネスプランの作成に取り掛かった。あまりにも高速でタイプしていたため、「business(ビジネス)」を「buisness」とタイプミスするほどだった。
大きく3点に焦点を合わせた。第一に、会社の目標と市場を定義した。「まずはホビイスト(コンピューターマニア)市場を踏み台にして大きな市場へ進出する」というシナリオを描いた。
第二に、価格戦略を定義した。「アップルの基本マシンは、特殊な分野向けの専用コンピューターよりも手ごろな値段で売られるべきである。マシンの全機能が使われるわけではないのだから、それを価格に反映させる必要はない」と書いた。
第三に、アップルはコンピューターに加えて周辺機器も扱うべきだと提案したうえで、「コンピューターと周辺機器は利益水準で同程度」と指摘した。周辺機器とは、1.モニター 2.ソフトウエアを読み込むためのカセットレコーダー 3.プリンターやテレタイプ端末用拡張カード――などのことだ。
「史上最速で成長する企業かもしれない」
ビジネスプランを書き進めるうちに、マークラはアップルに対してますます興味を深めていった。現実的に考えてアップルは税引き前で20%の売上高利益率を達成するから、研究開発費を自己資金で捻出できる。家庭用コンピューター産業に大きく技術貢献し、未来の新製品を生み出すパイオニアになれるのではないか!
タイミングも見誤ってはならない。マークラは「家庭用コンピューター市場でアップルは最初にリーダー企業として認知されなければならない。これは極めて重要」と書いた。計算してみると、アップルは今後10年で年商5億ドル企業に成長すると予想できた。史上最速で成長する企業かもしれないと思うと、アドレナリンが出るのを感じた。
難航した出資者探し
アップルへ出資するよう第三者を説得するためにビジネスプランを書いているんだ、とマークラはふと思った。説得は一筋縄ではいきそうになかった。すでにアタリとベンチャーキャピタリストのバレンタインはアップルへの出資を断っている。
ニューヨークに最初のコンピューター販売店を開店したスタン・ベイトも乗り気になれなかった。ジョブズから個人的に「1万ドルでアップル株の10%を買わないか」と誘われながら、出資を見送っていた。後で出資話を振り返り、「世界で最も信用できそうにないのが長髪のヒッピー。とても1万ドルを預ける気にはなれなかった」と語っている。
コンピューターメーカーもアップルへの出資をことごとく見送っている。コンピューター大手のコモドールはジョブズの出資要請を断る傍らで、自社製パソコンの発売に踏み切った。投資銀行も関心薄だった。例えば、後にアップルの新規株式公開(IPO)を手掛ける投資銀行家ビル・ハンブレクト。社内調査チームに「パソコンは一時的ブームで終わる」と言われ、第1回投資ラウンドへの参加を断った。「市民ラジオは一時的ブームで終わる」と正しく予想した実績を持つ社内調査チームを信用したようだ。
しかし、マークラは二つの意味で優位に立っていた。一つは、アップルⅡの現物を自分の目で見ていたということ。もう一つは、すでに数字を分析してアップルの成長軌道を描いていたということ。
もちろん、最初のビジネスプランは「5万フィート(15キロメートル)上空から眺めたような内容」であり、大ざっぱであった。それでありながらも、マークラはビジネスプラン執筆中に高揚感を覚えている。「心からの欲望」と「論理的な帰結」が見事に一致したからだ。アップルⅡが大好きだというのが「心からの欲望」だとすれば、数字のうえではパソコン事業が大化けするというのが「論理的な帰結」だ。
一般消費者にコンピュータを売り込むには
アップルについてマークラが思い付く唯一の大問題がマーケティングだった。コンピューターユーザーが企業や大学、政府機関に限られている状況下で、アップルはコンピューターの必要性を一般消費者に向かって訴えなければならないのである。
レスリー・バーリン著・牧野洋訳『トラブルメーカーズ 「異端児」たちはいかにしてシリコンバレーを創ったのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
当時のテレビや映画はコンピューターを恐ろしいマシンとして描いていた。1968年公開の映画『2001年宇宙の旅』は宇宙飛行士を殺害するコンピューターを描き、1977年公開の映画『デモン・シード』はロボットを使って女性を妊娠させようとする人工知能(AI)を描いている。マークラがジョブズとウォズニアックに会う数カ月前には、「コンピューターが秘密裏に人間の脳波を読み取れるようになるというのは本当か?」と質問する上院議員も現れた。
スティーブ・ジョブズは伝道者としてポテンシャルを秘めており、マーケティングで大いに活躍しそうに見えた。だが、マークラが思い描いているアップルはいずれ業界のリーダーになる企業だ。夢見る21歳の青年の情熱とカリスマ性をもってしても不十分なのは明らかだった。
アップルが必要としているマーケティング専門家はどんな人物でありべきなのか。まずは、ロジスティクスを理解し、企画や予測、販売、顧客サービス各部門の調整を担えなければならない。次に、ウォズニアックやジョブズ、ホームブリュー系ヒッピーの力を引き出して、一般消費者(特に郊外に住む中流家庭)のニーズに応えなければならない。
マークラには誰が適任なのかすでに分かっていた。自分自身である。「パソコンをどうマーケティングしたらいいのかイメージできる人なんて、ほかに存在しなかった」と振り返る。
----------
レスリー・バーリン歴史学者
シリコンバレーの郷土史家。スタンフォード大学で博士号(歴史学)、イェール大学で学士号(アメリカ研究)を取得。スタンフォード大学「シリコンバレー文書保管所」のプロジェクトヒストリアン、ニューヨーク・タイムズ紙の「プロタイプ」コラムニスト、スタンフォード大学「行動科学高等研究センター(CASBS)」のフェロー。スミソニアン協会が運営する国立アメリカ歴史博物館(NMAH)「レメルソン発明・イノベーション研究センター(LCSII)」の諮問委員会メンバーも務める。